言葉は記号ではないので、介護の教科書通りにはいかない
同じ話を繰り返す親の言葉は、快いものばかりではありません。
多くの書籍や介護関係者は、同じ話をしても、始めて聞いたような態度で優しく接するようにと書かれています。そうはいかないことも多いのです。
結婚していない定年を迎えた姉に、いい人はいないかと何度も言い続ける母に、こちらの方が、ハラハラします。施設で出会った方の息子さんが、同世代の独身であることを知った瞬間、本気で、お見合いを設定しようとしたことがあります。
私が問いだたしても駄目、最後に施設の方に『お見合いの話は白紙』ときっぱり言われるまで、何週間もその会話は続きました。
私が、姉であったら大爆発しているところでしょう。
遠慮のない身内どおし会話は、是非の判別がつけられない
同じ話を繰り返す高齢者に対して、理屈どおりに、優しい気持ちで接することができないのは、身内にとって痛いところをつかれてしまうためです。親は子供の事を良く知っています。
『地雷を踏む』という言葉がありますが、これは、相手が気に病んでいること、コンプレックス等に対して、無遠慮に土足で入り込んでしまう事を言います。漫画などから流行した言葉ですが、まさしくこの言葉にピッタリ。
血のつながった親子関係は、遠慮が無い分、こうしたことは日常茶飯事です。『そんなこと言うもんじゃないでしょ?』と言う私に、『お母さん以外に言う人がいないから、言うのよ。』といいます。
こんな言葉に逆に、思わず納得してしまうこともあり、へんてこな状態になることもあります。親とはありがたいものなのか、果たしてと考えるわけです。
お花畑を歩いているような夢のような楽しい会話なら、やり過ごして、『お母さんまた同じ話を繰り返している』となるんですよね。
人の興味や感心事って、愉快な事ばかりではない
しかし、自分の日常を振り返ってみれば良く分かります。人間の興味や関心は、決して美しいものばかりではありません。
- 警戒心(物盗られ症候群の行動で出る方も)
- 興味(火事場見物的な好奇心は、高齢になってもある)
- 不安(身体能力の衰えについての会話は止まらないはず)
- 愛情(無償の愛は時として重く、負担な時も)
会話は記号ではありません。会話の中に潜んでいる言葉に、受け入れがたい感情や、自分と利害に反する内容、道義的に流せない事、自分とは真逆のイデオロギーなどなどに触れると、私も過剰に反応してしまいます。
反応してしまった時は、いつもの空返事ではなく、わりと真面目に理屈をいいます。真面目に話しても半分も理解していないと思うのですが、もう、地雷は踏まれてしまったので、爆発するのみとなり、私の言葉も止まりません。この時、どんなに丁寧に説明しても、翌日は、また同じ話を繰り返して、どっとストレスが溜まる状況となります。
こんな時は、教科書を無視するべきです。親に、同じ話を繰り返しているし話の内容は不愉快であると、『キッパリ』告げることにしました。1回では利き目が無いし、逆に、逆上されることもあるけど、私は曲げません。もう、精神的に限界にきているのですから、これ以上は無理!
介護者は、こうあるべきといった教科書に縛られずに、自分の気持ちを解放させていくべきです。人間の営みは、そうそう、機械のように割りきれるものではないのですから。多分、悲惨な事件を起こしてしまう方は、正義感が強く、世間的にも優等生なのではと思います。
私は、劣等性のレッテルを、貼られてもかまいませんよ。
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